Arita porcelain 有田焼について
porcelain 400年以上の歴史を持つ有田焼
有田焼は、江戸時代前期の1616年、日本で最初に誕生した磁器です。朝鮮人陶工 李参平(り さんぺい)により有田町泉山で磁器の原料となる陶石が発見され、磁器生産が始まりました。その後、佐賀藩の一大産業となった有田焼は、染付、赤絵などの絵付け技術、成形技術が発達し、有田は世界屈指の磁器生産地へと発展していきます。
世界へ名を馳せる転機となるのが江戸時代中期から始まった、オランダ東インド会社によるヨーロッパへの輸出です。それまで磁器生産の中心であった中国が国外への輸出を禁じたことで有田に白羽の矢が立ったのです。有田で作られた焼き物は隣町の伊万里港から輸出され“Imari”と呼ばれました。真っ白な磁肌に描かれた情感漂う染付や、美しい色絵、東洋的な意匠は、当時、磁器生産技術を持たなかったヨーロッパの王侯貴族たちを魅了し、憧れの的に。海を渡った有田焼は、マイセン窯をはじめとする西洋の磁器発祥に大きな影響を与えたのです。
このようにして将軍家への献上品やヨーロッパへの輸出品として、磁器の生産技術はますます高まり、その後、江戸時代後期からは、量産技術も発達、日本国内で広く愛されるようになりました。
400年の歴史の中で、有田焼には3つの伝統様式が確立されました。染付、色絵、金彩を豪華絢爛に施した「古伊万里様式」、日本画の構図のように余白の美を楽しむ「柿右衛門様式」、将軍家などへの献上品として格式高くデザイン性に富んだ「鍋島藩窯様式」です。
高い技術に裏打ちされた多様な様式美が有田焼のアイデンティティとも言えます。
~ 3つの伝統様式を用いた賞美堂本店の器 ~
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古伊万里様式
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柿右衛門様式
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鍋島藩窯様式
production area 有田焼の産地
有田焼は、「肥前窯業圏」と呼ばれる有田町(ありたちょう)周辺で作られる磁器を総称しています。さらに細かく分類し、お隣の伊万里市で作られる「伊万里焼」、嬉野市の「吉田焼」を分けて呼ぶ場合もあります。隣接する長崎県波佐見町の「波佐見焼」、三川内地区の「三川内焼」もまた、同じ原料、技法を中心に用いながらともに文化を育んできました。
下の写真は磁器の原料である陶石が発見された有田町泉山の磁石場です。1980年には国の史跡に指定されました。現在はこの磁石場での採掘はほとんど行われていませんが、長年にわたり手彫りでの採掘を行った結果、山がひとつなくなったような状態になっています。ここで採掘される天然の陶石で磁器が生産できたという資源に恵まれた立地だったのです。
佐賀県西部に位置する有田町は、町土の多くが森林や山岳で覆われている自然豊かな町です。町の面積は65.85平方キロメートル、人口はおよそ20,000人です。磁器生産の繁栄のもと形成された谷あいの内山地区の町並みは、歴史的価値の高い建造物が連なり、1991年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。当社の「中の原店」もその一部に指定されています。さらに古くから残る窯元や九州陶磁文化館などの文化施設も含めた文化的景観は、「日本の20世紀遺産20選」としてイコモス(国際記念物遺跡会議)により選定されました。
また、毎年ゴールデンウィーク期間には「有田陶器市」が開催され、100万人以上の人出で賑わうほか、町のあちこちに立つ窯元の煙突(現在はほとんどが使用されていません)や窯の廃材でできたトンバイ塀、川底に残る陶片といった風景は、まさに焼き物の町といった風情があります。
technique 有田焼の装飾技法
有田焼に用いられる装飾技法は、400年余にわたり継承されてきた伝統的なものから、技術の進歩と細やかな分業体制により創造・発展してきたものまで多種多様に存在しています。現代では、その多様性こそが有田焼の魅力の一つと言えます。
当社の商品にも多く用いられる装飾技法の一部をご紹介いたします。
flow 有田焼の製造工程
有田焼は、とても多くの工程をそれぞれの職人が担って作られています。どの工程も完全に機械化することは難しく、それゆえ、一度に大量の焼き物を作ることはできませんが、多種多様な焼き物を作ることに長けているのが、有田焼の特徴でもあります。